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七ヶ用水の壮、枝権兵衛   江戸期の土木技術を支えた日本の数学「和算」   農民の闘争











村松標左衛門生家跡付近(富来町 旧町居村)

農業経営者・本草学者・藩の農産業振興ブレーン
             …マルチな才能を発揮した一人の農民


 村松標左衛門は、村松標左衛門は、宝暦12年(1762)能登国羽咋郡町居村(旧富来町字町居、現・志賀町)に生まれました。 村松家は、多数の奉公人を使い十数町歩(一町は約3,000坪)もの田畑を経営する豪農でした。 その三代目として誕生した標左衛門は、天保12年(1841)79歳の生涯を閉じるまで、農業に従事し 豪農経営にあたりながら、本草学や農学の研究にも取り組み、数多くの研究実績を残す「学農」 としての一生を送りました。彼の業績は広く藩内外にも知られ、51歳の時には加賀藩産物方に 抜擢され藩の農産業振興にも貢献しています。大規模な農業経営者であり、本草学・農学の研究者 でもあり、藩の農産業振興のブレーンでもあった村松標左衛門。一人の農民でありながら 数多くの著作を残し藩の公務にも携わった、彼の足跡を紹介しましょう。



  標左衛門生家跡表札(富来町 旧町居村)

本草学と出会い、「学農」としての道を歩きはじめる

松村家は、十数ヘクタールもの耕地を手作りする地主で、20人以上の奉公人を使役する 大規模な農家を営んでいました。青少年時代の標左衛門は、家業を手伝う多忙な日々を 送っていたと思われます。標左衛門はいつの頃からか本草学に興味を覚え、当代随一の 本草学者として名を馳せていた京都の小野蘭山(1729〜1810)に師事することになります。 20歳代の頃、京都に遊学し蘭山から直接指導を受けた標左衛門は、その後も多忙な 農業経営の日々の合間をぬうように、独自に本草学の研究に打ち込んでいきます。 蘭山も標左衛門を高く評価し、その師弟関係は蘭山の没年まで続きました。

標左衛門は『救荒本草啓蒙』10巻をはじめ、本草学関連の著述を数多く残しています。 また彼は山野や旅先で採取した植物を『腊葉帖(さくようちょう)』として残しました。 これはさまざまな植物を押し葉の形でたくわえた研究資料で、200年を経た今日でも 全22冊3302点に及ぶ植物の標本がほぼ完全な形で残されています。


村松標左衛門ゆかりの松尾神社

能登ではじめての農書を執筆

28歳のとき父・二代目伊兵衛が没し、標左衛門は村松家の家督を相続しました。農家経営の かたわら本草学関連の研究を続けていた標左衛門は、この頃から本格的に農書の著述に とりかかります。彼が最初に著した農書が『農業開奩志(かいれんし)』です。12巻に及ぶ この大著は、宮崎安貞の『農業全書』を手本にしつつも、能登という地域性、北地農業の 独自のあり方を考察したものとなっています。

引きつづき標左衛門は彼の代表的な著作となった『村松家訓』にとりかかります。 この書は、村松家で行なわれていた一年の農事・作業を24節季ごとに細部に至るまで 記しているほか、家族や奉公人などの心構えなどについても懇切丁寧な叙述で著し、 初心者でも充分理解できるような実用的なマニュアルとなっています。能登における 本格的な農書であり、わが国近代農業の白眉として、今日でも高く評価されています。