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土屋又三郎と『耕稼春秋』   「辰巳用水」の才、板屋兵四郎   「辰巳用水」をつくった驚異の土木技術
博覧強記の農・産業研究者 村松標左衛門(1)   江戸時代の農工業を綿密に記録した見聞録 村松標左衛門(2)  
七ヶ用水の壮、枝権兵衛   江戸期の土木技術を支えた日本の数学「和算」   農民の闘争











農民必見。加賀百万石の農業マニュアルをつくった男

17世紀から18世紀にかけて日本の農業は、中世的な段階から近世の集約的農業へと 移行の時期を迎えていました。農業技術や営農方法などのノウハウを体系化し、農業の 生産性を高めていくことが求められていたのです。こうした時代背景のもと、農業技術や 農家経営の知識をまとめた「農書」と呼ばれるノウハウ本が数多く刊行されました。

当時、加賀藩では、農村の生産指導などのために、他藩の大庄屋にあたる「十村(とむら)」 と呼ばれる独自の職制を制定していました。祖父・父が十村を務めた家系に生まれた 土屋又三郎は、若くして十村の管理職とも言うべき「無組御扶人十村」の役に就き、 農村指導に非凡な力を発揮したと伝えられています。晩年になって又三郎は、加越能三州の 農業事情や地誌を見聞し知見を広めながら、十村在職時の経験をまとめ、加賀藩で 最初となった農書『耕稼春秋』を著しました。

宝永4(1707)年、又三郎が63歳の時に完成した『耕稼春秋』は、その後数多くの写本が 作られ、十村が農民を指導する際のハウ・トゥー書、「十村必見の書」として広く読まれ 活用されました。『耕稼春秋』は、加賀百万石を築く基となった一冊の書物でもあったのです。



土屋又三郎 屋敷跡付近

代々続いた十村の家系に生まれ、独学で農業研究に打ち込む

又三郎は、金沢近郊の御供田(ごくでん)村(現在の金沢市神田1丁目)の大百姓の三代目として 生まれました。
祖父の初代三郎右衛門は、百姓のまとめ役である「十村(とむら)」を40年もの長きにわたって 務めた人物でした。二代目の父・勘四郎も同じく十村役として、前田利常の農業政策の遂行に 積極的に協力するなど、前田藩からも深い信任をうけた地域の実力者の家系だったのです。
父の跡を継いだ又三郎は、わずか20歳で石川郡の十村の管理者である「無組御扶人十村」の役に 任じられました。若くして要職に就いた又三郎は、地域の百姓の指導者として多忙な業務をこなす かたわら、農業に関するさまざまな研究に取り組んでいくことになります。この頃から又三郎は、 日々の研究の成果を書き溜めていたようです。それが後に『耕稼春秋』としてまとめられることと なります。しかし、体系的な農業技術書や学校(学塾)など整っていない時代、若き又三郎が どのようにして農業研究に取り組んでいったのか・・・その努力は並大抵のものではなかった ことでしょう。



地域の名士から、一転して罪人に・・・波乱万丈の一生

 農民指導者、篤農家、農業研究者として充実した日々を送っていた又三郎は、 49歳のとき不幸にもある事件に巻き込まれてしまいます。事件の詳細は不明ですが、 主犯との連帯責任を問われ禁獄1年、十村役解任、平百姓への格下げという罪を 課せられたのです。三代続いた地域の名士からの一転しての転落。又三郎は大きな 痛手を負いました。
 放免後、50歳の又三郎は剃髪し仏道に入ります。遁世の生活を送りながらも 農業研究を続け、この頃から本格的に著述活動に取り組みはじめます。十村在職時に 書き溜めておいた草稿をまとめるとともに、加越能三州にくまなく足を運び 農業の実態や地誌についての見聞を広めました。
 こうした活動の中から又三郎は75歳で没するまでの約15年間の間に、 『耕稼春秋』をはじめとする数々の著作を著していったのです。



土屋又三郎「耕稼春秋」個人蔵

『耕稼春秋』の内容

『耕稼春秋』には、年間の農作業のマニュアル的な解説のほか、米や麦、野菜など 農作物の栽培法、水利や肥料に関する知識、そして田の面積の計算法や農機具の種類 についても言及されています。


又三郎の著作

又三郎は『耕稼春秋』のほかにも数多くの著作を著しています。 それらを見ると、在野の農学者としての側面だけでなく、測量術にも長けた地理学者としての素養、実証的な科学研究者としての一面も伺うことができます。

元禄12(1702)年
 『金城隆盛私記』・・・金沢の由来を説き金沢城について記した著作

宝永4(1707)年
 『耕作私記』・・・『耕稼春秋』のダイジェスト版的な著作

正徳4(1714)年
 『加越能大路水経』・・・藩内三カ国の河川の水源・水脈・支流について
 詳述し河川に接続する山岳などへの路程も記したもの

享保2(1717)年
 『農業図絵』・・・加賀元禄期の農業の姿を鮮やかな彩りの図絵で
 記録した農書