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幕藩体制の崩壊による明治新政府の成立は、工芸や芸能などの文化面を沈滞させることにもなりました。これまで文化振興の後ろ盾となってきた大名を失ったためですが、加賀藩細工所を母体に優れた工芸技術を伝承してきた石川県では、行政と民間が一体となってこの危機を乗り切ります。
明治5年(1872)、失業した細工所の職人らを救済するため、授産施設として金沢町区開拓所(かなざわちょうくかいたくしょ)が設置されました。同11年には石川県勧業試験場となり、加賀象嵌(ぞうがん)や加賀蒔絵(まきえ)、加賀染、九谷焼をはじめとする伝統工芸の保護、育成を行いました。
殖産興業が日本近代化の命題となる中で、金沢町総区長の長谷川準也(はせがわ・じゅんや)は、明治10年(1877)、細工所にいた金工職人51人を集めて、輸出用の象嵌銅器を作る銅器会社を設立しました。九谷本窯の再興を目指した九谷陶器会社の設立は12年(1879)です。九谷焼は、華やかな彩色金襴手(さいしききんらんて)の技法が西欧やアメリカ人の求める東洋趣味と合致し、明治初期の外国貿易品として大量に輸出されました。
伝統工芸の担い手を養成する教育機関もできます。明治20年(1887)に開校した金沢工業学校(現石川県立工業高校)がそれですが、当時、美術工芸を内容とする中等学校としては日本初の学校でした。
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