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発酵から生まれた奇跡の食品

 「ふぐの卵巣の糠漬け」ほど珍しい食べものは世界にふたつとありません。ちょっと食べただけで命を落とすような猛毒を持つものを、ごはんの上にのせて食べて「ああ、おいしい」というのですから、これは本当に大変な食べものです。あまりに珍しいものですから、私は『食の世界遺産』という本を書くときに、その第1号の登録に「ふぐの卵巣の糠漬け」を推挙しました。
 猛毒を抜き、独特の旨みのある食べものを作っていくときに、発酵が大きく関わっていると考えられています。ふぐの卵巣の糠漬けをつくるには先ず卵巣を1年間塩漬けにします。その期間中、卵巣の水分が抜けていくのと一緒に大部分の毒が抜けるといわれています。しかし、組織などにくっついているものもあり、完璧に毒が抜けるわけではありません。そこで、今度は糠に漬け込んで発酵させます。そうすると、卵巣に残った毒の薄い膜を通して微生物が入り、分解していくと考えられます。糠みその中には乳酸菌や酵母、酪酸菌など、たくさんの微生物がひしめきあっていますが、なかでも乳酸菌が大きな働きをしていると思います。1gにだいたい5億個いるといわれています。テトロドトキシンという人間にとって最大の毒が、乳酸菌にとっては分解してエネルギーを得るためのターゲットであり、そうやって乳酸菌は生きている。大変小さくて目に見えない、ありふれた微生物・乳酸菌がそのような大きな力を持っているのです。
 発酵によって保存が可能になったり、アミノ酸や特殊なビタミンが生成されたり、食欲をそそる匂いや独特の味が生まれたり、発酵はさまざまな働きを持っています。納豆に血管の中の血の塊を溶かす作用があることや、ヨーグルトに整腸作用のほか血圧を下げる効果も見つかっています。
 日本人は食に対する貪欲なほどの探求心を持ち、発酵食品においても独自の発想と工夫ですばらしい食品をつくりだしてきました。その中でも「ふぐの卵巣の糠漬け」は原料が猛毒という点で特異であり、無毒化して食べるという点でまさに奇跡の食品だと思います。

【小泉武夫プロフィール】
1943年、福島県の酒造家に生まれる。農学博士。現在東京農業大学名誉教授、鹿児島大学、広島大学、琉球大学等の客員教授。発酵学、醸造学、食文化論の第一人者。食の冒険家として世界の食を食べ歩き、多様な食文化論を展開。著書は現在125冊をかぞえ、日本経済新聞に掲載中のエッセイ「食あれば楽あり」は連載20年を超える。多くの産業分野での、さらなる発酵技術の普及が、人間生活の安心・安全を確保する有力不可欠な手段であることを主唱し、この度「発酵文化推進機構」を設立。『発酵』(中央公論社)、『食に知恵あり』(日本経済新聞社)、『発酵食品礼賛』(文藝春秋)、『食の堕落と日本人』(東洋経済新聞)、『食と日本人の知恵』(岩波書店)、『発酵は力なり 食と人類の知恵』(日本放送出版協会)ほか著書多数。 食物・微生物に関係する特許20以上。日本醸造協会伊藤保平賞、三島雲海学術奨励賞受賞。

発酵学者・小泉武夫