古代は能登半島が大陸からの玄関口
大陸と向き合い、日本海に突き出た石川県・能登半島は、古くから海を通じて他地域との行き来が活発であった。
そこでは、盛んに文化交流が行われており、当然、食文化についても何らかの影響、恩恵を受けたと推測するのが
自然だろう。
例えば、8世紀から10世紀初頭にかけては、日本海をへだてた渤海国との交流が行われている。渤海は、7世紀末
に中国東北部から朝鮮半島北部にかけて興った国だ。富来町の福浦をはじめ、当時の能登は、日本海沿岸の一大貿
易地、寄港地として活況を呈し、盛んに大陸の文化を受け入れたと思われる。
珠洲焼が示す海を使った中世の交流
また、中世においては、敦賀・小浜と北海道の南部を結ぶいわゆる“海の新幹線”が発達し、これを通して日本海
側の各地との交流が行われた。
このことは、能登地方の珠洲市で平安時代末期から室町時代中期にかけて製作された珠洲焼が、東北や北海道までも
運ばれていたことからも明らかだ。
ちなみに珠洲焼は、独特の灰黒色を帯びた陶器だが、中国の影響を受けたと思われる陶器もあり、中国との交流もう
かがわせる。
江戸時代から明治にかけて北前船が活躍
近世にいたっては、江戸時代から明治にかけて活躍した北前船が、石川の食文化に大きな影響を与えた。北前船は、
大坂と北海道を、瀬戸内、山陰、北陸、東北を経由して結んだ商船で、西日本や北陸からは、米や酒、衣料、雑貨、
塩を運び、北海道や東北からは海産物、木材などを積み、寄港地で売りさばいた。
海運の通航圏はさまざまで、寄港地は、北は北海道の江差や松前にはじまり、出雲、九州にも広がり、佐賀県の伊
万里焼も北陸に数多く運ばれるなど、船が各地の文化を結んだ。
もともとは、寛永16年(1639)に、加賀藩三代藩主前田利常が藩米を大坂へ直送するために試みたのが最初とされ
ている。
石川県内では、加賀の塩屋・橋立、本吉、金沢の金石(大野・宮腰)、能登の福浦・輪島などが主な寄港地であり、
巨額の財をなした木谷藤右衛門、酒屋家、銭屋五兵衛を筆頭に大勢の船主がいた。 |