石川と世界の食文化 食の歳事記 石川新情報書府
陶芸や書、絵画などで才能を開花させ、同時に、美食家としても知られる北大路魯山人。 人気コミック「美味しんぼ」で取り上げられるなど、希代の芸術家であり、美食家である魯山人は、 大正から昭和にかけて石川県を幾度となく訪れている。食と器に並々ならぬ興味を示す魯山人 が何度も石川県を訪れたのは、この地に豊かな食文化と伝統文化が花開いていたからにほか ならない。
魯山人が石川県を初めて訪れたのは、大正4年(1915)のこと。魯山人が32歳の頃である。 富裕な商家に食客として滞在しながら流浪の旅をしていた魯山人の書の才能を、金沢の資産家・細野 燕台が見初め、自宅に招いたのがきっかけである。 燕台は、魯山人をさまざまな所へ連れ回した。その中の一つが金沢の料理旅館「山乃尾」である。魯山 人は「山乃尾」に足しげく出入りし、主人の太田多吉から料理の味付けや盛り付け、器との調和、客のも てなし方について学んだと言われている。
「山乃尾」にある
魯山人作の器
石川は、藩政時代の頃から、美術工芸や茶の湯の盛んな土地である。そのせいか多吉は、器に既製品を 用いず、窯元や塗師屋に特別に注文して作らせるこだわりぶりだったという。 後年、魯山人は「器は料理の着物」という名言を残しているが、そのような料理人のこだわりから、料 理と器が一体となってはじめて真の美食となることを学び取っていたのではないだろうか。

素材の旨味にこだわった焼き茄子を
魯山人の器に盛り付ける

 魯山人の料理の哲学の一つに「食材の持ち味を生かす」というものがある。
旬の素材をあまり手を加えずに味わうことを好み、ごちゃごちゃと手を加えることを好まなかった。その 点で、石川県には眼前に日本海、背後に控える白山連峰など、豊かな自然環境を背景に四季折々の 食材に恵まれており、魯山人もこの地を訪れることを非常に楽しみにしていたという。 「山乃尾」同様、魯山人がしばしば訪れた金沢の料理旅館「まつ本」には、素材の旨味を大切にする魯 山人の姿勢を偲ばせるエピソードが残っている。
 あるとき魯山人は、「まつ本」の女将に焼き茄子を注文した。すると、差し出された料理を見た魯山人 は「これが焼き茄子か」と怒鳴ったという。 女将は、食べやすいようにと茄子に包丁で切れ目を入れて出したのだが、魯山人は、素材の旨味をまる ごと封じ込められるように切れ目をいれずに茄子
「魯山人先生寓居跡」は今も
吉野家に残る
を焼いてほしかったのだとのこと。食材そのもの の旨さを知る魯山人だからこそ、石川の自然の恵みをそのまま味わいたかったに違いない。

 細野燕台は、当時、茶道や書、骨董など風流を好む文人や粋人が集まった山代温泉にも魯山人を連れて行った。 「吉野屋(2006年4月25日に営業終了)」「白銀屋」「あらや」といった旅館には、滞在中に彫った刻字看板や宿賃代わりにプレゼントした という器などが残っている。初めて 山代を訪れたときに身を寄せた「吉野屋」の別荘は、「魯山人先生寓居跡」としてかつての佇まいを今も伝え ている。魯山人は、山代に逗留したとき、香箱ガニや甘海老、くちこ、鴨、猪などの味を覚えたと言われる。  また、山代で出されたたくあんの味にも感心しており、後年、わざわざ取り寄せては、魯山人が経営してい た料亭・星岡茶寮で出し

ていたという。石川で食したものの中でも最もお気に入りの一つが「くちこ」であり、これも七尾や穴水産のも のを取り寄せては食べていた。「生の香りは、妙にフランス人の美人を連想するような、一種肉感的なところがあっ て温かい香りが鼻をつく。とにかく下戸も上戸も、その美味さには必ず驚歎する。そうして初めて口に上す者は、そ のなんであるかを当てる者は少ない」と表現し、石川の古くからの伝統食を絶賛している。

あらや」に残る絵皿は魯山人初期の作品

 山代温泉の九谷焼窯元、初代須田菁華を訪れたのも大正4年(1915)のことだ。初めて作陶の現場を見た魯山人には、 陶芸の制作現場がよほど新鮮だったらしい。 魯山人は、この時はじめて九谷焼の絵付けを行い、作陶に目覚めた。陶芸家・魯山人の誕生だ。「料理とは、単に舌先 だけで味わうものではない。 器がくだらないものでは料理も生きない」と持論する魯山人。一説には、燕台が自宅で料理を食べる際、既製品の器で はなく、自作の器で食事を楽しんでいるのをうらやましく思って作陶を始めたとの説もある。 魯山人は、その後、織部焼、瀬戸焼、備前焼など、さまざまな陶磁器の制作に挑戦し、陶芸家としての道を切り拓いて いくが、その原点はこの地にある。
器の裏に記された魯山人のサイン
 山代には、冬になるとはたびたび訪れては作陶に励んだそうで、その後、魯山人は自らが主宰する星岡茶寮で使う食器にも 菁華窯で焼いた作品をたくさん用いた。 昭和2年(1927)に初代菁華が亡くなると、滅多に人をほめないと言われる魯山人が「…陶磁界に於ける第一の異才なり。美し くて浮華ならず、渋くして枯淡ならず、才あり、情あり、気あり……天下独歩の観あり」と褒め称える弔辞を送り、嘆き悲し んだことからも、匠の技に深く感じ入っていた様子がうかがえる。  「使い勝手が良く、料理が映える器」。魯山人の器を表するとき、このように言われることが多い。今となっては芸術作品と 言われる魯山人の器だが、魯山人自身は器は使ってこそ意味のあるもの。料理と器とは絶妙な関係にあって、料理がぴったり マッチする器に盛りつけられたとき、一段とその味が旨くなると料理と器の本質的な関係を感じていたようである。  美を求め、美食を極めて、生涯を自由奔放に生きた北大路魯山人。九谷焼や輪島塗、金沢漆器など、数々の伝統工芸を育ん できた風土、四季折々の食材、そしてそれらを巧みに調和させる風土に魅せられた日々こそが、彼の才覚を鮮やかに際立たせ たに違いない。
初代菁華のために魯山人が書いた弔辞
陶芸家、書家。本名房次郎。明治16年3月23日、京都に生まれる。初め西洋看板のペンキ屋を開く。明治37(1904) 東京に移り、同年11月、日本美術展覧会に書を出品して一等賞を受け、以後書に打ち込み、29歳からは篆刻も習い 始めた。その後、陶芸に手を染め、19年には古美術商を営み、翌年春にはそのかたわら会員制の「美食倶楽部」を発 足させた。さらに25年には東京麹町の星岡茶寮の顧問兼料理長として料理・食器の演出に携わる。生涯のなかで書と 陶磁器にとりわけ鬼才を発揮した彼は、専門陶工ではない趣味人ならではの当意即妙な意匠の世界に新境地を開いた。 窯は北鎌倉の山崎に築き(1926)、星岡窯と称した。昭和34年12月21日死去。

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