石川と世界の食文化食の歳事記 石川新情報書府
エピソード
 1983(昭和58)年、能都町の真脇遺跡から、約5000年前の縄文時代のイルカの骨が大量に見つかった。頭の骨 は、のどの部分で切られ、脊椎骨は50〜60センチに切断されていた。
石ヤリも多数見つかり、入り江で囲い込んだイルカをヤリで 突き刺す漁が行われていたと考えられている。
 骨の大半を占めるカマイルカは、春になると内浦沿岸にやってくる。実は、真脇では、江戸時代から昭和初期に かけて、イルカ漁が盛んだった。今でも地元では「カマイルカはフジの咲くころにやってくる」との言い伝えも残 っており、縄文時代から5000年にわたってイルカを食べる食文化が、真脇には息づいてきたと言える。
 フグの糠漬は、干しダラ・タイのみそ漬などとともに保存食として用いられた。現在でも加賀名物の一つに数え られ、美川町、金沢市金石、大野が主産地となっている。魚の糠漬がいつごろからのものか、明確ではないが、17 27(亨保12)年の租税覚え書の中にフグの糠漬の記録が見られる。
 もとは、北前船が北海道方面から運んできたフグやニシンなどの塩蔵魚を糠に漬け込み、冬場や魚の獲れない 時期の食料としていたと考えられる。加賀藩江戸上屋敷御貸小屋跡からフグの骨が出土しており、フグの獲れな い江戸で、加賀藩士たちがフグ糠漬を国許から持ち込み、食べていたようだ。
 冬が旬のブリを、夏にも味わえるように、カラカラに干して乾燥させたものをイナダという。イナダは、関東地 方でのブリの幼魚の呼び名だが、能登では大型に成長したブリを乾燥加工したものをこう呼んでいる。本来は、金 沢城の兵糧の一部として加賀藩へ献上された。 一年に一度、新しいイナダが納品されると、古くなったイナダは民間に払い下げられ、それを茶人が手に入れて珍重 したそうだ。
 現在では、お中元の贈答品となっている。いまは見かけられなくなったが、台所の隅に天井から細いひもでつるして、 尾の方から包丁で削りとって食べる。透けて見えるくらい薄くそいだイナダのあめ色が食欲をそそる。特に夏のビール に合う味だ。イナダは民間に払い下げられ、それを茶人が手に入れて珍重したそうだ。
 イシリは、スルメイカの内臓に塩を加え、仕込み樽で発酵・熟成させたものを煮込んで作る魚しょうである。国内では 秋田のしょっつる、香川のイカナゴしょう油、海外では南米や南欧のアンチョビソース、ベトナムのニョクマムなどと同 類である。能登半島でも、内浦がスルメイカ、外浦はイワシと原料が違い、外浦ではイシルと呼んでいる。
 イシリの産地である能登は海岸線が長く、昔は塩田が多くあって塩の特産地だった。イシリは先人の知恵によって秋から 冬の気温の低い時期に、塩を大量にイカないしはイワシの内臓に加え、1〜2年間桶で寝かせるものである。塩の産地であ り、イカやイワシが大量に獲れた能登だからこそ、生まれはぐくまれた調味料と言えよう。
 藩政時代からの伝統を誇る大野のしょう油。金沢市大野は、現在でも千葉県の野田、銚子、兵庫県の龍野、香川県の小豆 島と並ぶ、しょう油の五大産地の一つである。他の産地に比べ、甘口なのが大野しょう油の特徴で、それ故、魚の調理には 最適と言われている。
 藩政期、参勤交代で江戸には加賀藩藩主をはじめ、多くの藩士が在勤していたが、みそ・しょう油といった調味料は、国許 から送られてきた本国産のものが、藩主とその家族のために使われていたようだ。十三代藩主前田斉泰の食事のメニューがう かがえる資料が現在、残っており、その中に「御本国到来の生醤油」と記されている。
 ナマコの卵巣の乾燥品をクチコと言う。軽く焼いたり、から揚げにするなどして食べるが、かなり濃厚な味な ので、細かく切るなどして食べることが多い。懐石料理にも用いられる高級珍味でもあり,少しずつじっくりか みしめるといい。 クチコは、大きなナマコ30〜40個から2、3合、干しクチコにすると4、5枚しかとれない。薄 紅色の糸状の 卵巣をひもにかけて三角に広げて干す風景はユーモラス。
 奈良の平城京の遺跡から8世紀ごろの木簡が大量に見つかり、そこに能登郡鹿島郷(七尾市付近)から調物と してナマコ6斤が都へ運ばれたとの記録が残っていた。平安朝の延喜式にも能登の海産物としてナマコの名が記 されており、ナマコは古くから能登の人々の生活を支える食べ物だったようだ。
 加賀藩主の食事の中で、年中行事として供されるものがある。その代表が氷室の氷だろう。旧暦の6月1日 (現在の7月1日)に「氷と氷餅を錫皿に盛り」と記した資料が残っており、夏に氷のひんやりとした感触を 楽しむデザートであったようだ。加賀藩が冬の間に室へ貯蔵しておいた氷は、藩主はもちろん、はるばる江戸 の将軍家にも献上されていた。
 金沢の町でも、この日に切り出された山の氷が売り歩かれたという。冬の間に力強く育つ麦を使って作られた 万頭を食べると一年間風邪をひかないとの言われもあったようで、現在では、この氷室の日に氷室万頭を食べる 習慣が残っている。
 串にさして焼くドジョウのかば焼きは、夏の訪れを告げる金沢の風物詩と言える。タンパク質、カルシウム、 ビタミンAに富み、金沢ではウナギと並ぶ夏バテ予防のスタミナ食だ。骨を抜かずに焼くので、コツコツとし た歯触りも楽しめる。夏に金沢の台所・近江町市場へ行くと、ドジョウとウナギが競うように焼かれ、その香 ばしいにおいが食欲をさそう。
 百万石の城下町には珍しい、どちらかと言えばあまり洗練された雰囲気のないどじょうのかば焼きが金沢に普 及したのは、明治初期に長崎から流刑になったキリシタン信者が持ち込んだからという説もある。
 「スシ」という名は、平安時代のはじめから文献に見えており、「酢」や「鮨」といった字が書かれている。 昔のスシは「魚を蔵するに、飯と塩とをもってし、その味の酸を生ぜしものなれば、かく名づけしなり」と文献にあ るように、魚肉を貯蔵する一方法だったようだ。近世の「早ズシ」「握りズシ」が普及する中で、このようななれズ シは姿を消すようになったが、琵琶湖のフナを原料とした「フナズシ」や小魚を使った奥能登の「なれズシ」などは、 現代においても根強く残っている。
 能登では、穴水町のアジのヒネズシ、能都町のサクラウグヒのヒネズシなどがある。自然発酵させるスシなので、独 特の臭みがあり、嫌う人もいるが、食べ慣れるとやみつきになる人も少なくない。
 現在、漆器や朝市でその名を全国に知られる輪島は、かつて、そうめんの名産地として知られていた。起源は不明だが、 1587年(天正15)に加賀藩祖・前田利家が生産、販売を自由化してから生産が活発化。江戸時代から全国的に名産品とし て知られているものを取り上げた「大日本物産図会」(3代広重・明治10年)にも「能登索麺製造ノ図」が掲載されている。
 鳳至郡門前町に今も残されている民謡「能登麦屋節」の歌詞にも、「輪島」の名が歌いこまれている。輪島のそうめん屋 で原料となる小麦を挽きながら唄われていたものが、輪島まで働きにきていた人々が伝え広めたものと思われる。

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