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関係年譜

利家の活躍

天文6年 1537 利家、尾張国荒子に生まれる
16年 1547 まつ(利家正室、芳春院)、尾張沖ノ島・篠原家に生まれる
19年 1550 まつ、利家の父利昌に養育される
20年 1551 利家、正月に織田信長に仕える。知行50貫
8月に元服、孫四郎利家と称す。尾張海津の戦いに初陣
弘治2年 1556 信長に背く信行の兵と戦い軍功。知行 100貫加増で 150貫に
村井長頼を召し抱える
永禄元年 1558 利家(22歳) 、まつ(12歳) と結婚。この年、又左衛門と称す
2年 1559 信長に仕えていた同朋衆拾阿弥を斬り、信長の勘気に触れ出仕停止。熱田社家松岡氏、三河御油・林家に寄食
3年 1560 信長、今川義元を桶狭間に討つ。利家は密かに従軍し武功あったが帰参叶わず
父利春(利昌)没す
4年 1561 5月、信長、斎藤竜興と美濃森部に戦う。戦功により勘気を解かれ帰参し300貫の加増で 450貫に
9月、川中島の戦い
5年 1562 5月、信長、斎藤竜興と美濃軽海に斎藤の兵と戦う。従軍
10年 1567 8月、信長、斎藤竜興を美濃稲葉山に降し、岐阜と改称。従軍
11年 1568 9月、信長、足利義昭を奉じて上洛し、近江の六角承禎を逐う。従軍織田家の赤母衣衆となる
12年 1569 8月、信長、北畠具教を伊勢大河内城に囲む。従軍
10月、信長の指示により前田氏を継ぐ。知行2450貫(約6000石)
元亀元年 1570 4月、信長、朝倉義景を越前手筒山に攻める。従軍
6月、浅井長政を小谷城に攻める。従軍
9月、摂津で本願寺衆徒と戦い戦功あり(堤の上の槍)
信長、浅井・朝倉の兵を比叡山に囲む。従軍
近江長浜1万石を与えられる(史実的にあいまい)
3年 1572 7月、信長、浅井長政を小谷城に攻める。従軍
天正元年 1573 8月、信長、朝倉義景を越前刀根山に破り、義景を一乗谷に、浅井長政を近江小谷に滅ぼす。従軍
信長、足利義昭を逐い、室町幕府滅亡
2年 1574 信長、伊勢長島の一向衆徒を討つ。従軍
上杉謙信、越中・加賀に出兵
3年 1575 5月、長篠の戦いで信長・家康連合軍が武田勝頼を破る。鉄砲足軽大将として従軍
8月、信長、越前の一向衆徒を滅ぼす。従軍
9月、信長、越前を分封。利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が十万石を領知(実質33,000石)
4年 1576 安土城成る
5年 1577 8月、柴田勝家らとともに加賀に出陣、上杉謙信を防ぐ。翌月退却、謙信の追撃受ける
6年 1578 上杉謙信没す
8年 1580 柴田勝家、加賀の一向一揆を平定
9年 1581 3月、上杉景勝の侵入を防ぎ、越中に出陣
能登一国が封じられ、七尾城に居する(20万石以上?)
利勝(利長)、信長の娘(玉泉院)と結婚、越前府中に封ぜられる
10年 1582 正月、能登所口 (七尾) に小丸山城を築城
信長・家康が天目山の戦いで武田勝頼を破る(武田氏滅亡)
柴田勝家らと越中富山城、魚津城を攻める。本能寺の変(6月)で急遽撤収
秀吉、中国大返しで京都で明智光秀を討つ
7月、能登石動山天平寺を焼き、温井・三宅・僧兵らを討つ
11年 1583 柴田勝家の近江出陣に利家父子従軍。賤ケ岳の戦いで勝家敗走。利家、軍を引き越前府中に帰り、秀吉に降る。勝家北庄城に自殺
利家、加賀を掃討。能登および加賀の河北、石川2郡を与えられ金沢城に拠る
利勝、越前府中から加賀松任(4万石)に移る
12年 1584 末森城の戦いで佐々成政を撃退
能登宝達山に金鉱発見
13年 1585 越中出陣で秀吉が金沢に。利家も従軍し富山城で佐々成政を降す
利勝、越中砺波、婦負、射水3郡を与えられて守山に拠る
11月、地震で木舟城将前田秀継( 利家末弟) 夫妻圧死
14年 1586 3月、上洛し従四位下左(右)近衛少将に任ぜられ、筑前守受領
4月秀吉、聚楽第を着工(翌年9月完成)
聚楽第に伴い、利家も京都に邸宅造る
15年 1587 2月、秀吉の九州出陣に、利勝3000の兵を率い従軍。利家は京都留守居。7月大坂に凱旋
聚楽第成り、麻阿(利家娘で秀吉側室)が天守の居住
10月、北野大茶湯、利家出席
16年 1588 利家父子、大仏殿普請に1万人負担
能登一国を利政に与う
刀狩令で領内の刀狩り
17年 1589 4月、千利休が利家と浅野長政を茶会に招く
右近衛権中将に任ぜられる
18年 1590 正月、正四位下、参議となる
利家ら北条氏討伐に関東へ出陣。7月に北条氏降る。家康、関東8カ国領知
19年 1591 利家・利長父子が秀吉のお伽衆となる
10月、利家、参議を辞任
文禄元年 1592 3月、朝鮮出兵で出陣。利家の僕従と家康の僕従が喧嘩。家康とともに肥前名護屋城を守る
利長、金沢城を修築(尾山改め金沢に)
2年 1593 明軍を破り講和。8月秀頼の誕生で、秀吉、大坂に帰る。ついで利家らも帰る
利長、左近衛権少将に、利政、侍従に任ず
秀頼誕生で秀吉、豊臣秀次の娘との結婚を指示し、利家夫妻に仲介を命ずる
3年 1594 4月、利家、従三位権中納言、利政従四位に昇叙する
権中納言を辞す
11月、伏見に前田邸建築
4年 1595 3月、近江高島郡内に加増、ついで越中新川郡加封
秀吉、利家の京都邸に泊まる
7月、利家・宇喜多秀家・家康・毛利輝元ら諸将、秀頼に忠誠を誓う・利家、秀頼の傅役となる
慶長元年 1596 3月、家康、前田邸を訪れる
従三位権中納言前田利家を従二位権大納言に、家康は正二位内大臣に・閏7月、大地震で伏見城崩れ、利家が秀吉の安否を見舞う
2年 1597 権大納言を辞す
利長、参議となる
利長、越中守山から富山に還る
11月、秀吉より「冨士茄子」の茶壺を受け、天目茶湯許される
3年 1598 3月、秀吉父子、醍醐寺の花見。利家夫妻・加賀殿ら陪席
4月、利長従三位権中納言となる
利家隠退(養老封26万石) し利長が継ぐ。ついで利家、上野草津に湯治
6月、上洛し秀吉の病を見舞う
7月、諸大名、秀頼に忠誠を誓い、利家の伏見邸において起請文を書く。利家・利長・利政ら、秀吉の遺物を受く
8月、秀吉、秀頼を五大老(利家・家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)に託し、18日薨去
利家・家康ら、朝鮮在陣諸将の撤兵を指示
利家、年末頃より病が酷くなる
4年 1599 正月に諸大名が秀頼を伏見城の参賀、利家が後見。秀頼が大坂城に移る。
2月、家康、豊臣氏制法に背き、利家ら四大老と五奉行に責められていたが和解
まつが遺物処分状・遺書を代筆。家康、書状で利家の病を見舞う
閏3月3日朝、利家薨る(享年62・高徳院殿桃雲浄見大居士) 。まつ、剃髪して芳春院と称す。利家の遺骸を金沢野田山に葬る
利長の金沢帰国(8月)後、大坂の家康に増田長盛が「利家、浅野長政らに異心」と密告。家康、利長を征伐しようとしたが、横山長知を大坂へ下し弁明、事無きを得る
12月、利長、権中納言を辞す
5年 1600 利長、野田山に宝円寺(桃雲寺)を開基し利家の廟所とする
芳春院、人質として江戸に下る
9月、関が原の戦いで利長出陣。利政は参陣せず
家康が利長に利常と珠姫(秀忠娘)との結婚を約し、また利政の封を奪う(のち利政夫妻は上洛し嵯峨に隠棲)
10月、家康、利長に加賀・能登・越中 120余万石を与える
6年 1601 9月、利常と珠姫が結婚
利常を家督とし、また宇喜多秀家の夫人豪が前田氏に帰る
7年 1602 正月、利長が江戸で秀忠に目通りし、また芳春院に会う
2月、利長、家康・秀頼に謁す
3月、芳春院、摂津有馬へ湯治(10月まで)
金沢城で火災、天守を焼失
8年 1603 家康、征夷大将軍となり、江戸幕府開く
宇喜多秀家、駿河久能に幽閉後、八丈島に流罪
9年 1604 利孝(利家5男、後に七日市藩祖)、江戸に赴き芳春院の近侍に
10年 1605 秀忠が二代将軍となる
利長が隠居し、利常が三代藩主に
12年 1607 9月に利長、家康に、ついで秀忠に謁す
芳春院、京都大徳寺に芳春院を建てる(翌年完成し開山)
14年 1609 富山城で火災。利長、高岡に遷る
15年 1610 芳春院、能登総持寺を改築
利長、悪性のはれものに病む
16年 1611 利長、遺書を作る
18年 1613 豊臣秀頼、家康と対立し、利長を勧誘す
19年 1614 5月20日利長薨る (瑞竜院殿聖山英賢大居士) 。贈正二位権大納言
6月、芳春院が高岡に利長の墓に詣で、玉泉院を伴い金沢に帰る
大坂冬の陣で利常初陣
利常の生母寿福院、江戸に下る
元和元年 1615 大坂夏の陣で利常再び出陣。大坂城陥落、秀頼・淀殿自殺
2年 1616 4月、家康病没
利孝、夏の陣の戦功で上野国七日市1万14石に封ぜられる
3年 1617 7月16日、芳春院、金沢城内で卒 (芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼) 。野田山の利家墓側に葬り、分骨を大徳寺芳春院に納める

利家とまつ
石川新情報書府